

音楽療法ネタ帳
更新日:2026年7月20日
音楽療法の集団セッションの中で、戦争の話をしたり、戦争に関する音楽を使うことはあまりありません。言うまでもなく、とてもデリケートなテーマで、不用意に扱うべきではない、と考えています。ただ、会話・音楽の繋がりの中で、自然と戦争の話になることもあります。特に8月に入ると、戦争・原爆・終戦に関するテレビ番組が増えてくるので、戦争の話題になることもありますよね。中には「話したい」「伝えたい」「溢れる」想いがある方もいらっしゃいます。そして「聞きたくない」「思い出したくない」方もいらっしゃいます。その前提を胸に。。。
今回は、戦争や終戦にまつわる背景・エピソードを持つ10曲を、発表年順にご紹介します。参考になれば、幸いです。
発表年: 1910年(明治43年)
作詞 / 作曲: 宮原晃一郎 / 不詳(文部省唱歌)
歌手: 合唱曲として普及
【エピソード】
「我は海の子 白波の〜」のこの曲は、1910年に『尋常小学読本唱歌』で発表され、2007年には「日本の歌百選」にも選ばれた名曲。実は戦前までは7番まで歌詞がありました。 しかし、4番以降の歌詞の一部に、発表当時の世相を反映した軍国主義的な内容を含んでいたため、終戦後に削られることになります。
7番の歌詞には「いで軍艦に 乗組みて 我は護らん 海の国」という歌詞があります。
1947年以降は現在の3番までが小学校で教えられるようになり、海の歌・愛唱歌として100年以上に渡り愛され続けています。
発表年:
蘇州夜曲:1940年(昭和15年)
夜来香:1944年(昭和19年)
作詞/作曲:
蘇州夜曲:西條八十 / 服部良一(蘇州夜曲)
夜来香:黎錦光
歌手: 李香蘭(山口淑子)
【エピソード】
エキゾチックな魅力と圧倒的な歌唱力で日中の観客を魅了した大スター「李香蘭」。彼女は、日本の国策映画スターとして満州国で作り上げられた「架空の中国人スター」でした。その正体は、日本人の山口淑子さん。 戦後、彼女は中国人として「漢奸(売国奴)」の罪で処刑されかけますが、日本人であることが証明され、奇跡的に帰国を果たしました。蘇州夜曲・夜来香は、李香蘭の代表曲です。
▶︎参考:李香蘭 プロフィール(日本コロムビア)
発表年: 1940年(昭和15年)
作詞 / 作曲: 岡本一平 / 飯田信夫
歌手: 徳山璉(とくやま たまき)
【エピソード】
「とんとんとんからりと 隣組〜」という軽快なリズムと親しみやすいメロディー(戦後はドリフターズの番組のテーマ曲としても有名!)。 しかしこの曲は、実は、戦時下の国民を相互監視・統制するための組織「隣組」を推進する目的で作られたプロパガンダ歌謡でした。配給や防空演習などを協力して行うという表向きの明るさの裏には、「贅沢は敵だ」「非国民」といった言葉を生み出した、厳しい相互監視の社会体制があったとか。
発表年: 1940年(昭和15年)
作詞 / 作曲: サトウハチロー / 仁木他喜雄
歌手: 二葉あき子、高橋祐子
【エピソード】
映画『馬』(高峰秀子主演)の主題歌として大ヒットした童謡。前半は、少年と愛らしい仔馬が一緒にすくすくと育っていく微笑ましい情景が歌われます、5番では「軍馬になって征く日には」「バンザイ」と言う歌詞が書かれています。
発表年: 1945年(昭和20年)
作詞 / 作曲: 斎藤信夫 / 海沼實
歌手: 川田正子
【エピソード】
秋の情景を歌う美しい童謡として知られますが、元々は「星月夜」というタイトルで、南方に出征した兵士の武運を祈る軍国歌謡として作られた詩でした。 当初の3番・4番には「椰子の島 しっかり守ってください」「大きくなったら兵隊さん」「必ずお国をまもります」といった言葉が入っていました。
昭和20年、終戦後、戦地から引き上げてくる兵士たちに向けて、「外地引揚同胞激励の午后」というラジオ番組が企画されました。このラジオ放送の1週間前に、作詞家の斎藤信夫のもとへ「1・2番はそのままでいいから、3・4番の歌詞を復員兵を励ます詩に変えてほしい」との依頼が舞い込みます。斎藤は急遽後半の詞を書き直し、放送当日に作曲家・海沼實の提案で曲名も現在のものへと変更されました。こうして、南方の激戦地から無事に引き揚げてくる父親を待つ、母と子の家族愛の歌へと生まれ変わったのです。
当時11歳の童謡歌手・川田正子がラジオでこの曲を披露すると、NHKの電話が鳴りやまずパニックになるほどの凄まじい大反響を呼び、翌日以降はたくさんの郵便物が届いたそうです。そしてその後、復員を知らせるラジオ番組でも半年間にわたって流されたとのこと。
発表年: 1945年(昭和20年)
作詞 / 作曲: サトウハチロー / 万城目正
歌手: 並木路子
【エピソード】
終戦直後の1945年10月に公開された映画『そよかぜ』の主題歌であり、「戦後第1号のヒット曲」です。2007年には「日本の歌百選」にも選ばれています。
「少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった」と言われています。
▶︎参照:リンゴの唄 | Wikipedia
しかし、あの明るい歌声の裏には壮絶な背景が。歌手の並木路子は、戦争で父と次兄を亡くし、自身も3月10日の東京大空襲で猛火に追われ、隅田川に逃げ込んで九死に一生を得たものの母を亡くしたばかりでした。悲しみのあまりどうしても明るく歌えない並木に対し、万城目は「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭し励ましたと言います。その言葉があって、あの歌声が生まれたとか。
▶︎「リンゴの唄」 敗戦の底から国民を癒やす | 日本経済新聞
発表年: 1949年(昭和24年)
作詞 / 作曲: サトウハチロー / 古関裕而
歌手: 藤山一郎
【エピソード】
自らも被爆し、重傷を負いながら長崎の被災者救護に命を懸けた医師・永井隆博士の随筆をモチーフにした鎮魂歌。 作曲の古関裕而氏は、悲惨な現実や絶望を「短調(マイナー)」で重々しく描きつつ、曲の最後は「長調(メジャー)」に転調。この歌詞と音楽の組み合わせ、凄み、カタルシスを感じます…
さらに、この曲には「伝説のレコーディング」と呼ばれる逸話も。1949年の録音当日、歌手の藤山一郎は40度近い高熱で伏せっていました。あまりの苦しさに当初は断るつもりでしたが、スタッフが待っていると聞き、妻の運転する車でスタジオへ駆けつけます。仮録音のつもりで、気力を振り絞って熱唱したその声はまさに鬼気迫る神懸かり的な歌声で、スタジオのスタッフは号泣。結局、再録音は行われず、その1回目のテイクがそのままレコードとして世に出ることになりました。
▶︎長崎の鐘は鳴り続ける(ドキュメンタリー) | NHKアーカイブス
発表年: 1954年(昭和29年)
作詞 / 作曲: 藤田まさと / 平川浪竜
歌手: 菊池章子(※1972年に二葉百合子のカバーでさらに大ヒット)
【エピソード】
第二次世界大戦後、シベリア抑留からの引揚船が入港する舞鶴港(京都府)で、いつ帰るか分からない息子の帰還を待ち続けた実在の母親(端野いせさん)をモデルにした歌。
発表年: 1967年(昭和42年)
作詞・作曲: 寺島尚彦
歌手: 森山良子 他
【エピソード】
「ざわわ ざわわ ざわわ…」というフレーズが深く心に残る名曲。この曲の中には、なんと「ざわわ」という言葉が66回も登場します。 これは、風に揺れるさとうきびの葉擦れの音であると同時に、激しい沖縄戦で理不尽に命を落とした人々の魂のざわめき、そして遺された者たちの深い悲しみや平和への問いかけを表しているとも言われています。
発表年: 1971年(昭和46年)
作詞 / 作曲: 北山修 / 杉田二郎
歌手: ジローズ(杉田二郎&森下次郎)
【エピソード】
終戦から25年が経った1970年、大阪万博のステージのために作られ、翌年に大ヒットした戦後世代による「新しい反戦歌」。 作詞を手掛けた北山修氏(ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーであり精神科医。『あの素晴しい愛をもう一度』『花嫁』など数々のヒット曲の作詞者!)は、アメリカの「フラワーチルドレン」にヒントを得て、この歌詞を先に書き上げました。
当時はベトナム戦争の真っ只中。戦争体験者が多く健在だったこともあり、「戦争も行ってないくせに生意気だ」「あま過ぎる」と猛烈な批判を浴び、二人はすっかり創作意欲を失ってしなったそう。 しかし4年後の1975年。沖縄でのコンサートでこの曲を歌うのを躊躇していた杉田氏がアンコールでステージに戻ると、そこには観客による大合唱が待っていました。杉田氏は涙を流し「これでようやく、みんなのところにこの曲が届いた!」と実感したそうです。
北山氏が万博のステージの最後に「願わくば100年後、200年後の子供たちも『戦争を知らない子供たち』というタイトルで音楽会が開けるように」と語ったそうです。
私も願っています。世界中で実現することを。
紹介しておいて何ですが、実は⑨さとうきび畑・⑩戦争を知らない子どもたい、この2曲はセッションで歌ったことがありません。「戦争に関わる曲」ということで、調べ、紹介させていただきました。音楽を通して「歴史を知る」経験を積み重ねているなぁと、感じます。
音楽を介することで、言葉にならない思いを表出されたり、分かち合ったり、思い出の蓋があいたり…ということが、よくあります。音楽にはパワーがある。だからこそ、音楽療法士は「余計なお世話にならないように」と慎重になっている部分があると思います。音楽は、心にズバッと入っていくから。良くも悪くも。「長崎の鐘」を演奏をすると、涙を流される方がいらっしゃいます。そんな時、「余計なお世話ではなかっただろうか…」と自問自答する時も、あります。
一応セラピストである私も、一緒に音楽をする方(クライエント)も、対等で、それぞれ生きてきた人生を大切に思い合えて、これまでの歩みを認め合えて、好きなものを「いいね!」と言い合える、安心できる場でありたい、と思っています。まずは「安心」が大事。そう思いつつ、音楽をしています。
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著者
マツダ サチコ
日本音楽療法学会認定音楽療法士、作業療法士、社会福祉士。介護老人保健施設や認知症疾患医療センター、訪問事業所にて勤務。ダブルケアを経て、現在はWebマーケティング・制作会社にて勤務、ディレクションおよび制作を担当。個人事業としてもWeb制作、音楽療法を行なっている。
著者
マツダ サチコ
日本音楽療法学会認定音楽療法士、作業療法士、社会福祉士。介護老人保健施設や認知症疾患医療センター、訪問事業所にて勤務。ダブルケアを経て、現在はWebマーケティング・制作会社にて勤務、ディレクションおよび制作を担当。個人事業としてもWeb制作、音楽療法を行なっている。
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